リーダー教育とは人間教育のことである

安倍首相


■リーダーシップとは何か
「リーダーシップ」と言えば、ある選ばれた人(リーダー)たちだけに関係する特別な行為と見なされがちである。しかし、そうだろうか。

そもそも「リーダー」とは何か。それは固定したものではない。人間の社会的役割行動の1つだ。誰でもが「リーダー」になり得るし、リーダーとしての振る舞い、つまりリーダーシップを要求される場面が「常に」ある。リーダーとは部課長などの職位のことではない。父や兄はもちろん、子に対して母もリーダーだし、先輩や友人としてもリーダーシップは要求されている。

リーダーシップを、上から下へくだす命令などと解するのは完全な誤解である。リーダーシップとは集団(人の集まり)としての能力を高めるための働きかけ全体を指すものである。だから、いま挙げた人々とは逆の立場の人々が発揮するリーダーシップもある。たとえば、部下から上司への、子から親へのリーダーシップなど。

そういうリーダーシップの全体像から、各専門方向への特殊リーダーシップ論が展開されている。そしてその中でも特に政治家としてのリーダーシップと企業経営者としてのリーダーシップが一般によく知られているのである。

■すべての教育はリーダー教育である

申し述べたいことはここからである。以上のようにリーダーシップとは人々とのコミュニケーションを広げ深めることであり、同時にものごとを洞察し判断し、人々とともに何事かを実行していくことである。これは平たい言葉で言えば、人間として生きる力を高め、広げ、深めることに他ならないのではないだろうか。つまり、リーダーシップとは人間力の発揮であり、リーダーシップ教育あるいはリーダー教育とは人間教育のことなのである。

たとえば、企業の中で、めざさなければならない教育は経営幹部教育である。経営者とは「リーダー」なのである。知識や技能だけでなく、いやそれ以上に人格を磨くことが肝要である。すべての教育は人間教育でなければならない。そして、その教育者も「リーダー」でなければならない。人格者でなければならないのだ。少なくとも、人格向上をめざし続ける者、それをめざして学び続ける者でなければならない。

ましてや教師はそうである。すべての子どもたちをリーダーとして育てなければならない使命を負っており、自身もリーダーたるにふさわしい人間であり続けなければならないのである。

「市民」や「国民」ではなく、リーダーとしての人間こそが人のあり方でなければならない。「リーダーに従う者」(「部下」の立場、雇われサラリーマン)という自己卑下的で身勝手な自己規定が人倫としてのモラル低下を招いている。マナーを守れないのは、法や強制がない限り、自分自身へのリーダーシップ(自主性、主体性)を発揮しないからだ。

学校、企業、家庭、社会のあらゆる場面でリーダー教育こそが現代の喫緊の課題ではないだろうか。