実用英語教育に見られる貧しい人間観

mansonge2007-02-17


英語教育に実用性が求められ、学校で英会話教育のまねごとが行われるようになったのはいつ頃からだろうか。言うまでもないが、学校教育だけでみんながペラペラと英会話ができるようになるなんて誰も本気では思ってはいないだろう。もし本当にそうならNOVAなどはとっくに廃業だ。

それでも学校教育の暴走は止まらない。大学・高校入試ではヒヤリングテストさえ実施している。しかしそんなことで英会話ができるようになる実質的な効果なんてまるでなく、結果として新たな「科目」を増やしただけのことだ。

そもそも学校の教育において即効的な実用性が必要なのだろうか。その役割は専門学校ではなかったのか。そして、もし学校での教育が実用的である必要が本当にあるならば、なぜ英語だけを特権化するのか。算数や数学、国語、理科、社会などもそうであるべきだろう。しかし英語以外は原理原則的な教育にとどまっている。こういうのをダブル・スタンダードと言うのだ。


だが、待て。英語以外は原理原則を学ぶことが行われているのか。…どうもそうではない。

そうだ、学校教育は英語に限らずどの科目も、むしろその「原理原則」を放棄しかけているのだ。薄っぺらな教科書、指導内容の大幅削減がそれを如実に物語る。安易な実用教育に逃避し始めているのだ。「総合学習」というのも、この一環に他ならない。

学習には「量から質への転化」というプロセスがある。理系科目ではある程度の演習量、語学や文系科目ではある程度の暗記量の蓄積がなければ、原理原則が理解できない。原理原則を知ってこそ、現実に対しても応用できるのだ。

そういう核心のプロセス以前で学習を断ち切り、学習を断片的なままにしておいて、その断片だけを「実用的」にしようとしているのが現代の学校教育ではないのか。私が思うに、そうではなく、即効性のない学習こそが現実社会で役立ちうる「教養」となる。学校で学ぶとはそういうことではないのか。

先ほどは実用教育の場所として述べた「専門学校」、たとえば塾や予備校の方がよっぽど原理原則を教える授業をしている。学校や大学では学べない「学問」というものを知ることができる場所になっていると思う。

安直な実用性には乏しいかもしれないが、すべてに対して基礎となりうる学問、これが「教養」だ。学校はこの教養教育の場所だと思う。そもそも英語は「英語」という科目ではなく、「外国語」として設定されているはずだ。日本語を相対化して一言語して捉え直すこと、そして英語以外の外国語を学ぶモデルとすることが英語を学ぶ本来の目的だ。

英会話などへ直ちに適用はできないが、言語としての英語を学ぶこと。これが人間としての滋養であり教養だ。算数・数学も然り。俗論に九九さえ覚えればよいと言うが、実用性で言えばそれも正論だ。だが、世の中で役立たない算数・数学をなぜ学ぶのか。それは人間として生きる上で万能の源となる教養を身につけるためだ。もしそうでないのなら、そんな科目や勉強は始めから無用だ。

こうして考えれば、現代は教養の危機の時代だと言える。大学でも教養教育の目的が見失われつつある。その意義が実用に対しての距離において問題視されている。有用な学問だけでは学問は滅ぶ。「無用」の学問こそが有用の学問を支えているのだ。これは人間観の問題である。何のために人は生きるのかという問いである。人は食べるために生きるのではない。生きるために食べるのだ。