ノート:市田良彦『ルイ・アルチュセール―行方不明者の哲学』

 アルチュセール:1918-1990 65年 2つのマルクス論 80年 妻殺害 統合失調症

(目次)
第一章 行方不明者の生涯
一 理論と経験
 2つの峰 哲学を「捏造」する 
二 落差と眩暈―青年期
 「私」は二人いる 「行方不明者」になる 「暗い夜」(神秘主義ヨハネ) 福音と真理(キリスト教マルクス主義) 「ある」と「ない」をつなぐ
三 二股をかける哲学者―壮年期
 客観的否定性(DES論文:ヘーゲル論、空虚から内容が生まれる) 増殖する二股 党内論争を招く「理論」(党内分派) スピノザの名による「統一」(ENSのグループ・スピノザ) 「科学者のための哲学講義」(67年ENS)と「レーニンと哲学」(68年フランス哲学会)
四 危機の炸裂―一九七〇年代以降
 鬱への転落 断片 「プロレタリア独裁」放棄への反対 「精霊に呼び出されました」 未来は長く続く

*二重性 空虚・無が有を生む

第二章 偶然性唯物論スピノザ―問題の「凝固」
― 偶然性唯物論―晩年の思想?
 思想が像(イメージ)として差し出される(「出会いの唯物論の地下水脈」)*降り注ぐ原子の雨の詩(エピクロスクリナメン・原子の偏倚の詩) スピノザは偶然と空虚を否定する(神の充溢) 「空虚」の力が変わる
二 構造とはなにか
 構造的因果性は「発生」を問題にする(外部がない)*エピクロスクリナメンについてのメモ アルチュセール、未来の宿敵アロンから「偶然」を学ぶ(ワルラスの師オーギュスタン・クルノ) 「偶然」は「理性の狡知」ではない 「構造」はヘーゲルに捉まえられない(断層がない) 「構造」はスピノザに「認識」される
三 「錯乱」と「狂気」
 「次はスピノザだ」 スピノザマキャヴェッリの「経験」を教える(理論と経験・実践は回転扉) 「中心問題は(…)無からの始まりだ」 スピノザマキャヴェッリの「経験」に、フーコーの「狂気」が加わる
四 経験主義
 ヘーゲルは経験主義者である(世界を読む) 「経験」の先には「絶対知」が 『知性改善論』が捨てられ、『エチカ』が「はじまる」(断層、『精神現象学』と『大論理学』) 「彼女の名を口ずさみ」「開いた本を読む」 預言者は「目を開けて夢を見る」 「第3種の認識」は「経験」される

*スピノザの空虚、偶然、並行
東浩紀、コンセプト哲学、例「弱いつながり」「観光客の哲学」
※発生・始原、構造発生とともに閉じられる、始まりと終わりは見えない、世界の秘密
※重層的構造、原子・分子・細胞・器官〜宇宙レベル間の相互矛盾(同一系に包含できない空虚と偶然、亀裂・断層)、垂直的世界と水平的世界、通時的・共時的、矛盾と差異
*分子的「経験」は人間にはあり得ない
※フランス人のB型気質、「経験主義」の独自定義 

第三章 『資本論を読む』またはスピノザを読む
アルチュセールスピノザ
 「真は自らと偽を指し示す」―科学性の基準と哲学(『資本論』からマルクスの哲学を取り出す、スピノザの方法) 「見ていることを見ている」―デカルトによる反照的二重化(メタ、二度目の「考える」) 「われわれは実際、真なる観念をもっている」―認識のはじまり(「観念の観念」の否定) アルチュセールデカルトに戻る?(理論の理論) 認識生産は革命と「並行」する 認識生産は「3つの一般性」をもつ 並行論、証明されず(革命、認識論的切断)
二 徴候的読解とはなにか
  徴候的読解はスピノザの方法である(聖書を読むスピノザ、古典派経済学を読むマルクス、反省的認識、「道」を歩む方法) 「観念」は認識内的に「並行」する(スピノザ存在論的並行と認識論的並行) 「観念」は「霊的自動機械」である 徴候的読解はスピノザを批判する―「労働力」の「価値」(反照の反照、剰余価値の搾取)
三 神の背中―哲学と宗教
 認識は「見ると見ないの有機的混同」を運ぶ はじめに確信/確実性ありき―哲学と宗教の区別と同一性 神の背中を見る
四 「われわれ」は「狂って」いる
 イデオロギーが「真なる観念の形相」を与える 「狂って」いるから振り向き、「原因」を認識する 

第四章 構造から〈私〉と国家へ
一 「錯乱」するアルチュセール
 はじめに幻覚ありき 「感情」が「霊的自動機械」を作動させる 幻覚の氾濫、妄想なき錯乱
二 原因の劇場
 二重の包摂または「作者なき演劇」 並行論は構造的因果性論である 「個体」―個人/国家―は存在するか 本質と存在が分裂する―「偶然性唯物論」再論(クリナメン) ドラマが終わり、「出会い」が訪れる
三「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」再考
 主体なきイデオロギーは、個人の存在を危うくする―個体の存在論 スピノザイデオロギーからパスカルイデオロギー装置へ イデオロギー装置は「実体」を模倣する
四 〈私〉と国家
 ヴィルトゥ(権力)へのコナトゥス(努力)の拡張 「実体」になる―倒錯的スピノザ主義 二重の包摂が転移する―「マキャヴェッリとわれわれ」(運と力)

第五章 スピノザから遠く離れて
―『神学政治論』でも『政治論』でもなく
 スピノザ「革命」続く リベラル・スピノザ主義vs.アナーキースピノザ主義 スピノザの無力
二 哲学、政治、歴史
 「哲学とは理論における政治である」 「『神学政治論』がスピノザの『資本論』である」
三 起源、深淵、個人/狂人―フーコーと共闘する
 『狂気の歴史』は「歴史の起源」を問う アルチュセール、『臨床医学の歴史』を読ませてもらう 「個人」は「見えないで見える」 「政治」の主体は「狂人」である
四 国家の政治―フーコーと対立する
 「終わり」のマキャヴェッリ 「装置」か「装置」か 「そと」の権力技術 ニーチェ主義を退ける マルクス〈主義〉の限界
五 自伝という「政治」―「佐川くん」にならずピエール・リヴィエールになるために

本書において使用した文献
謝辞

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始める・終える、始まる・終わる、主客・自他動詞

始め(着想)良い酔い、本論ぐだぐだへべれけ

  

アルチュセール ある連結の哲学

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